コーラスグループ「ドリーム」誕生の秘話

誕生 

命を刻む白い糸

ある晴れた土曜日、病院では糖尿病教室の講義が始まっていた。

参加していた私は途中トイレに行った。そのときうずくまっている女性と出逢った。

眼科外来でもお見かけした患者様だった。

意識はあったが低血糖を起こしているようだった。

管野先生に連絡をとり、大至急車椅子で救急外来までお連れした。

「よくきましたね」と話した。白い杖を頼りに本当によく来たものだと思った。

どうもその言葉が印象に残ったようである。後にお礼のお手紙を頂いた。

記憶の中で文字を綴ってあった。一生懸命まっすぐに書く工夫もしてあった。

手紙の中で、「今までほめてもらったことはなかった。

ほんとうにうれしかった」と綴られていた。

その彼女から2002年12月始め、直径1メートルほどの白いレースのテーブルクロスが

届いた。視覚障害者手帳一級を持ちながら一年がかりで仕上げたものだった。

手に取ったとき体が震えた。

彼女の眼の状態は知っていた。1~2メートル先の物体がほとんど認識できない。

視野もかなり狭い。その彼女がどんな思いでこの白くて細い糸を手繰って編んだのか。

一目も飛ばず出来上がっていた。この力どこから湧いてくるのか。

 

後悔を生きがいに換える

1999年、内分泌代謝科菅野先生のご指導のもと、当院外来糖尿病患者の実態調査を行った。

これは、当院受診中の2型糖尿病患者285名(1995年~1998年)を対象とし、

HbA1cレベル別による糖尿病網膜症の推移を調べることを目的とした。

(第6回日本糖尿病眼学会発表 眼紀52:155-159,2001掲載済)

このとき、郵送によるアンケート調査も同時に行った。

最後の欄に、自由に意見を書いていただく箇所を設けた。

「こうすればよかった」、「ああすればよかった」と後悔の言葉が多く記載されていた。

この大事なメッセージを何かの形で活かしたいと思い続けて日だけが過ぎていた。

思っているだけでは何も始まらない。

私に出来ることは何か・・

一歩前に押し出してくれたのが、この白いレースのテーブルクロスであった。

私が担当する検査の一つに、蛍光眼底造影検査がある。

月に50名前後、その90%が糖尿病の患者様である。

この検査を受ける患者様の多くは、「失明するのではないか」と心の奥底に不安を抱えている。

平均年齢68歳ぐらいであろうか。

人生の終盤、どう過ごすかという大きな課題を胸に秘めている人たちである。

ほとんどの方が社会の肩書きを脱ぎ終えた方々である。

この場を担当する看護師と私は、まず患者様にいかにリラックスして検査を受けていただくかに神経を注ぐ。

この検査は、散瞳剤を点眼して瞳が開いてから行う検査である。

最低30分の待ち時間はある。

その間、患者さまにいろいろな話をしていただく環境を心がけている。

何をされるのかと心配な患者様もいる。

待っているだけで緊張感から気分を害する患者様を多く見てきている。

カメラのフィルターをのぞきシャッターを押すとき意外は、言葉をかけるようにしている。

静かだと、心配である。

病を持っていても不思議と自分の興味のあることを話すときの目は光っている。

コーラス部誕生の発想は、この臨床現場から生まれたものである。

右足にギプスを巻いた状態で、検査を受けに来た患者様が言った。

「歌って血糖値を下げるのよ!!」と。(ほんとかどうか?)

『歌か、これはお金がかからないな』。

どこかの偉い先生が言っていた「生まれつきの音痴はいない」と。

身体も音を持っている。一定のリズムがある。

細胞がダンスをしている姿?を想像した。

病院の一角に患者様が楽しめる場所を作ろう。

病に侵されていても残された機能で楽しむことは出来る。

患者様が人生で培ってきたものを活かせ合える場所を作ろう。

お互いの人生をぶつけ合いながらすごいエネルギーが生まれる。

共感が共感を生む。一時は死を考えたことがある人もいるであろう。

それゆえ、強い。

テーブルクロスの彼女は言った。

「糖尿病になって今苦しんでいる。この自分の姿を通して糖尿病の怖さを伝えたいのだ。

それが今の自分にはできること、それが生きがいだ」と。

彼女を含めコーラスメンバーの中で5名ほど、患者様スタッフとしてお願いしている。

患者様としての意見が聞きたかったからである。

すべてこの検査の時出逢った患者様である。

現在、白いレースのテーブルクロスは、多くの人の目に留まる病院1階アトリウムパンジーのピアノの上に

メッセージを添えて存在している。制作者は渡辺喜美江さんである。

 

この思いどこまで響くか!GO,GO8階院長室

幸いなことに、院内には提言箱が設置されていた。

2002年12月19日、「当院の患者様対象のコーラス部を作りたい」と率直に書いた。

翌日、返事を頂戴した。

「大変おもしろい良い企画と思います。患者さまの病気に対して前向きに取り組む姿勢を

育み育てる重要な活動になるのではないかと期待しています。」

「やった!」と一人大声をあげた。まだ一人だった。

このとき私の中で、コーラス部のシナリオは出来上がった。

この一声で今のコーラス部ドリームは存在している。多くの人々の笑顔が存在している。

“コーラス部ドリーム”の名付け親は三宅院長先生である。

偶然ではあるが、ちょうど一年後の2003年12月19日が、

第一回院内ジョイントクリスマスコンサートの開催日となった。

 

すごい先生がいた!! パート1

コーラス部というからには歌を歌うわけである。指導者がいなければ始まらない。

ある先生が「小児科の戸谷剛先生、合唱経験あるよ」と教えてくれた。

おそるおそるお願いした。「いいですよ」とさわやかに了承してくださった。

念を押した。「先生、土曜、日曜が練習日ですよ、平気ですかと・・・・・・」

にこにこしてうなずいていた。

人生、心からこの人と出逢えてよかったと思える人がいる。

いつか、小田和正(作詞・作曲)の“言葉にできない”を先生の前で披露できたらと思っている。

“あなたに会えて ほんとうによかった。”

“嬉しくって 嬉くって 言葉にできない”

どの有名な指導者であろうが、この先生に替わる私たちの指導者はいない。

出逢えてほんとうによかった。メンバー全員が思っていることである。

 

すごい先生がいた!! パート2

いくらなんでも、戸谷先生は小児科医である。一人の先生の肩に背負わすわけにはいかない。

さあ、どうするか。

ここで、少々私の幼少のことを話さないと前に進まない。

私は昭和30年生まれ、家は貧しく・・となにかの物語のようだが事実であった。

小学校のときピアノの上手な友人がいた。

彼女の手はまるで魔法のように見えた。ピアノなど一般の家庭には無い時代である。

当時の私は学校の音楽教室で見るくらいだった。

2児の母となって、貫いたことがある。

それは、いくつかの習い事の中でピアノだけは止めさせなかったことである。

楽譜が読めるようになるまでは続けてほしいと。

毎年彼女らのレベルに合わせて、私の誕生日までに私の好きな曲を課題としてお願いした。

今では、私のお葬式用にと、これだと思う曲を長女にお願いしている。

自分の好きな曲を娘が弾いてくれて、その中で最後のひと時を過ごせるなんて、

なんて贅沢な死に方だとは思うが、今から言っていると現実になるように思えてくるのは不思議だ。

長女と次女とは4つ違い、子供が習い始めると同時に私もピアノを習い始めた。

あっという間に置いてきぼりになってしまった。

次女と連弾したときのこと、曲はサンサーンスの白鳥、途中で手が止まった。

頭の中が真っ白。次女の手が何もなかったように動いていた。救われた。

これを機にピアノから遠ざかった。

ピアノはだめだ・・・じゃあなにがある・・・ともかく子供と一緒にしたいのである。

この年になって、何ができる。ふと思った。

バイオリンはどうか。

私の通っていた中学校の音楽の先生は、バイオリンを授業に取り入れていた。

持ち方ぐらいは覚えている。

ええーい! バイオリンじゃ!!と買ってしまった。

習い始めてから一年が過ぎた。わが家の休日はもっぱら日曜大工。

ギーコ、ギーコ、のこぎり音が絶えないのである。

まあ、勘弁してください。30分と続かないから。

まんまと巻き添えとなったのが、私のバイオリンの先生、後藤与志子先生である。

しかし、不思議なものだ。この先生喜んで引き受けてくださったのである。

プロの先生を無料でお願いしている。何度も「お金一銭も出ませんけど・・・・」と

「そんなことを心配するよりバイオリンのお稽古は」と言い返された。

「いつの日か、ピアノでできなかった白鳥の曲を、娘のピアノと一緒に合わせたいのですが」

と夢を語ったら、「長生きすることです。」と言われた。

 

すごいスタッフがいた!! パート1

コーラス部メンバーの対象者は、当院受診中の慢性疾患をお持ちの患者さまである。

どうしても看護師の応援が必要だった。絶えずどこかにいないかなーとアンテナを張っていた。

週末ともなればほとんどの職員はくたくたであろう。

コーラス部の為に、自分の時間を費やしてくれる人がいるか、心配だった。

数人に声をかけた。いない。進んでしたいという人を探していた。

時間は誰もが共通にもっている。その時間を何にあてるか。さまざまである。

身近な看護師に声をかけた。表情を見逃さなかった。

体全体で喜び応援してくれた。立石理恵子看護師だった。

看護暦24年 3児の母でもある。彼女以外にいないと思った。

 

すごいスタッフがいた!! パート2

入会希望者の中に、職員がいた。

クラークの佐藤千鶴子さんだった。スタッフのメンバーになってほしいとお願いした。

このクラーク、ただ者ではなかった。しばらくして一本のビデオテープを持って来た。

NHKのど自慢コンクールでピンクレディーの“カルメン77”を友人と2人で歌っている姿が映っていた。

もちろん、鐘が鳴り響いていた。

すごいスタッフが来たものだと笑いこけながら思った。

 

すごいスタッフがいた!! パート3

隣接している武蔵野看護短期大学にも、スタッフ募集をお願いした。

若い人の意見を聞きたかったからである。

この網に一人ひっかかった女性がいた。小林道子さんだった。

この看護学生もただものではなかった。

どう見ても、20代そこそこの顔をしていた。控えめでどことなく頼りなく見えた。

しばらくしてわかったことだが、10年ほど児童館の仕事をしていたそうだ。

この謙虚さは人生経験からきていたのかと思った。

後に彼女を中心として、看護短大生32名が動くことになる。すごい力だ。

 

ドリーム号発車オーライ

2003年3月29日、第一期ドリームの練習が山崎記念講堂で始まった。

総勢36名、最高年齢者80歳、最年少者18歳である。

すべてが、長患いの患者様である。

初日一番心配したのが、戸谷先生のことである。

はたしてどんな指導をしていただけるのか。

音楽に関してどのような経験をお持ちなのかまったく知らなかった。

この心配はすぐにすっ飛んだ。言葉ではあらわせない。

この先生について行こう。メンバー全員がそう思ったことだろう。

練習するにも発表の場が必要である。

「12月19日にクリスマスコンサートを開きます。今からスケジュールを

空けておいてください。」とメンバーに話した。

練習曲はリクエストのあった曲を中心に選んだ。

花、ふるさと、ローレライ、きよしこの夜、そして町ではやっている歌を一曲入れた。

「世界にひとつだけの花」である。

短大生小林さんの提案で、この歌に手話も加えることになった。

いっしょに参加してくれる短大生を募集した。

32名が集まった。一ヶ月間で手話を覚えた。昼休みを利用しての練習だった。

自分なりにこの日を迎えるまでの目標を決めた。

1.無事故で1年間過ごせますように!

2.皆が楽しく練習を終えられますように!

3.戸谷先生と後藤先生のご家族をお呼び出来ますように!

4.サンタさんが来てくれますように!

 

メンバーの中に、18歳の少女がいた。難病だった。

3歳から入退院の繰り返し。その中で青春を生きていた。

練習会場には車椅子でお母さんと参加していた。

近みはるさんと、お嬢様のゆう子さんだった。

ある時、体調が悪く長いすに横になった。

小さな声で、“お母さんは会社でコーラス部に入ってたんだ”

と教えてくれた。

そうか、最初お母さんが彼女を連れてきてくれたのかと思っていたが違っていた。

彼女がお母さんを連れてきてくれたのである。

「クリスマスコンサートに出たい」と言った。

 

パジャマ姿で練習に参加しているメンバーがいた。

9月のある日、入院中のお部屋に伺うと、詩吟の練習をしていた。

聞くと、病院の駐車場が練習場という。

3月から入院して抗がん剤の治療をしていた。頭から帽子が離れない。

「ふるさとの歌にも詩吟があるんです。」と教えてくれた。佐藤京子さんである。

「ぜひ聞かせてください」とその場で歌ってもらった。

なんと、澄んだ声なのだろう。頬がほんのりピンクがかっていた。

どんなに着飾っても美しく見えない人がいる。

素顔でも、きれいだと思う人がいる。年齢を重ねるほどそれはにじみでる。

聞けば、入院中に詩吟の師範の免許を取得したそうだ。

なんて強い人なのだろう。

 

メンバーの中に素敵な服装の女性がいた。

和服の生地を洋装仕立てにして、素敵に着こなしていた。

コンサート当日の衣装はすでに決まっていた。

女性は白のブラースに黒のスカート。

この女性が、持っていないメンバーのスカート13着を自分で作るといった。

私は念を押した「一人では無理です」と。

言うことを聞かなかった。「晴れ舞台です。作ります。2度と出来ないかも知れません。」

8月の熱い日だった。

そこには病と闘いながら、自分の出来ることをしたいとの思いがあった。

この女性は結局メンバーの衣装13着を一人で仕上げた。

きもの学院の先生をしていた。

2004年1月に入って、蛍光眼底造影検査の撮影依頼が医師からあった。

分厚いカルテが検査台に置かれてあった。名前を見た。住所を見た。まさかと思った。

まさかが的中した。

衣装を縫ってくださった女性のご主人だった。

カルテを見ながら、何も理解していなかった自分を恥じた。

ご自身の喘息発作とご主人の予期せぬ病気と闘いながら、衣装を縫っていたことを後から知った。

ほんとうにすまないと思った。

“二度と出来ないかもしれません”といった言葉が浮かんだ。

宝物がひとつ増えた。自分にもコーラス部ドリームにも。

そして、ほかのメンバーも自分の病気と戦っていた。

どうか、一時でも病気であることを忘れて、安心して楽しんでください。

ここは病院です。

 

コーラス部の危機 戸谷先生がいなくなる!!

練習用にいとすぎ学級のキーボードをお借りしていた。

7月も終わろうとするころいとすぎ学級の先生から、いとすぎ学級創立30周年記念式典に

出演していただきたいとの依頼があった。

本番まで2回しか練習できない。戸谷先生と後藤先生はあせった。

戸谷先生からは、別の重大な発表があった。コーラス部の危機である。

先生の移動であった。10月1日付け埼玉の病院に移動となることだった。

先生が移動になる。いなくなる・・・・

スタッフ一同青くなった。先生は「何とか都合つけて通います」といった。

「私のストレス解消にも良いんです」と。いつも笑顔の先生だ。

 

いとすぎ学級創立30周年記念出演

少ない練習時間にもかかわらず、反響を呼んだ。

会場では感激のあまり涙している人もいた。

一緒になって口ずさんでいる人もいた。ふるさとの歌の間に詩吟をお願いした。

すばらしい響きとなっていた。

しかし、車椅子の少女とおかあさんの姿がなかった。

前日、HCUに入院していた。

夕方、録音したテープを病棟に持って行った。

何の反応もないように見えた。

耳もとに録音したてのメンバーの歌声を聞かせた。

「聞こえる?聞こえる?」と耳元で繰り返し尋ねた。

そばにいたおかあさんが、「この子聞こえています。」と言った。

ぎゅっと握り締めていた彼女の手が、声をかけるたび反応していた。

「クリスマスコンサート出ようね」とささやいた。顔が動いた。

私の思いは決まった。一緒に出る。必ず一緒に舞台に出ると。

おかあさんに、彼女の好きな曲を聞いた。

森山良太郎の「さくら」だった。

すぐに、看護短大生の小林さんに声をかけた。いっしょに歌ってほしいと!

一番近い年齢だ。

本来なら彼女も短大生と同じように好きなことに兆戦する年齢なはず。

快く引き受けてくれた。

11月から、短大の講堂で「世界にひとつだけの花」と「さくら」の練習が始まった。

昼食の時間を割いての練習だった。学業の合間、必死に練習していた。

 

NHKさん、こんにちは

いつの間にか、朝5時になると目が覚める習慣が出来ていた。

テレビのチャンネルはNHK、ドリップでコーヒーを沸かし朝食をとる。

わが家の習慣である。

ふとテレビ画面に目が行く。「ホームビデオ募集、身近な情報をお寄せください」と。

すかさずメモをとる。

コーラスの練習風景をビデオで収めていた。ビデオを編集して3分にまとめた。

NHKに送るためである。

NHKおはよう日本 編集部の皆様へとメッセージを一コマ入れた。

『おはよう日本のみなさまへ』

職員有志と患者様とのクリスマスジョイントコンサートを開催致します。

今年3月、慢性疾患をお持ちの患者さまでなるコーラス部ドリームが誕生しました。

そんなことをしている病院・・

日本のどこかにありますでしょうか

病院とは・・・

患者さまにとってどのような場所なのでしょうか

医療事故等胸が痛くなるニュースが多いなか、日本の皆さまにホットなニュースを

プレゼントできたらと思っています。

NHKの皆さまいかがでしょうか!! 』

なんてきざな文句を載せた。だが、うそではない。

病気で楽しむことを忘れている人がいる。その人達に伝えたかった。

病院の関係者の方々にも伝えたかった。

病気と闘っているメンバーを紹介したかった。

2週間たっても連絡がなかった。取り上げてくれなかったかなと思った。

勇気をだしNHKに電話した。結局、ビデオの送付先が適当でなかった。

とんでもない場所に運ばれていた。探し出した人がいた。

報道局制作センター チーフ・プロデューサーの田中さんだった。

「是非お会いしたい」と言ってきた。

一階のアトリウムで待ち合わせした。あたりをきょろきょろしている人がいた。

田中さんだった。すでに、どこにカメラを設置しようか考えていた。

「どのような形で、どの番組になるかわからないですが、選挙が終わったらまた来ます。」

世の中は衆議院選挙の真っ只中だった。

このときはまだ、12分間のテレビ放映になるとは思いもしなかった。

 

はじめてのクリスマスコンサート

思いもかけない応援者が現れた。

5年ほど前から、心がけていることがある。歩くことである。

時間があれば職場まで歩くことにしている。

いつものように、ヘッドホンをつけて軽快に歩いていた。あっ!

心臓血管外科 藤原先生だった。このままだと、途中で合流する。

抜かすか、このまま後をつけるか。

どうせ行く場所は同じである。身長と足の長さは同じようである。

私が早足なのは、足だけではなく、手も激しく振っているせいである。

早足は、足が主役ではない。手が動くから足がついてくのである。

おはようございます。手が止まった。音楽の話になった。

何日か前、仕事のことで先生のお部屋に出かけたことがあった。

ノックをした。「福川です。スライド仕上がりました。」「はい、どうぞ。」

先客がいた。ソファーにでんと座っていた。それも2人!

用を済ませ、だまって部屋をでた。何じゃ、2人も!

先生の秘密でも見てしまった気分だった。

先客は“ここは私たちの指定席よ!”とでも言いたげに、部屋の主とともに

息づいていた。先客は2台のギターケースだった。

なにが入っているのだろう。

歩きながら言った。

「先生!クラシックギターをされるんですか。」「うん」当たった。

コンサート当日の後藤先生と藤原先生とのバイオリンとギターのアンサンブルは、

このような出逢いから生まれた。

藤原先生が出演すると知って驚いたのは多くの職員だった。

あっという間に病院中に広まった。当日を待ちわびる観客が増えた。

ある時、病院の中に私と同じ誕生日の先生がいることがわかった。

腎臓内科の羽田先生だった。

机を見てびっくりした。ジョンレノンがいた。

Tシャツ姿の若者の写真があった。ギターを持っていた。羽田先生だった。

どこかでコンサートを開くらしい。

メンバーを聞いてびっくりした。

清水孝先生、鈴木比有万先生、西村幸先生、櫻井馨先生、釣巻ゆずり先生、

6人組 “Here Today”というバンド名まであった。

コンサートに出演していただけることになった。

忙しい中、練習にも顔を見せてくれた。メンバー全員が喜んだ。

患者様と武蔵野看護短大生有志と職員有志によるジョイントコンサートとなった。

クリスマスコンサートに必要なものがあった。サンタクロースである。

会場に足を運べない患者様が院内にいる。

一ヶ月前より、院長先生にお願いしていた。「サンタさんになってください」と。

病院の忘年会のときOKの返事が返ってきた。12月12日金曜日だった。

本番一週間前だった。大急ぎでプレゼントを作った。

カードを買ってきて、メッセージを手書きで添えた。120枚になった。

サンタクロースの服装を集めるのには苦労しなかった。サンタクロース3着。

院長、副院長の3名分あった。サンタガールは短大生3名にお願いした。

副院長先生のところに連絡した。「お願いがあります。サンタさんになってください。」

運良く、当日スケジュールが空いていた。苦笑いしながら「いいよ!」OKだった。

病棟で入院中の患者様の喜ぶ顔が目に浮かんだ。看護師の微笑んでいる姿も想像した。

職員の笑顔も浮かんだ。ほんの一瞬でもいい。その笑顔がほしかった。

2日後、だれかの常識とやらで、その計画は中止になった。

今だに、理由はわからない。一瞬にして、多くの笑顔が消えた。

何十万円と掛けたクリスマスイルミネーションが今年も灯っていた。

患者様、職員が喜ぶようにと考えてのことであろう。

 

12月19日 金曜日 本番の日が来た。

夕方4時、院長秘書から連絡があった。「院長先生が待っています」と。

短大生3名がサンタガールの衣装をまとい、立石看護師とともに

院長を迎えに8階に急いだ。正装した院長がいた。

朱色のネクタイをした院長が待っていた。

看護部の計らいでR-6の病棟を廻ることができた。

病棟看護師長は突然の出来事にもかかわらず、笑顔で病棟を案内してくれた。

患者様の笑顔が聞こえた。院長先生も笑顔だった。

この光景をビデオに収めていた者がいた。

ボランティアでお願いしていた東京農工大の青年だった。

彼が言った。「みんなが動いている様子を残します。二度と撮れないものです。」

彼の撮った2時間のビデオテープはダビングしてメンバー全員にわたり、宝となった。

2003年12月27日土曜日 午前7時37分 NHKのテレビ番組“おはよう日本”から

武蔵野赤十字病院の外観が映し出され、コンサート風景が関東首都圏に電波となって流れた。

 

あとがき:今回のNHKテレビ取材で実際に取材現場を担当された

首都圏放送センター若狭光洋さんに心より感謝申し上げたい。

短い期間にメンバーの中に飛び込み、必死に取材されていた。

その心がメンバーに伝わった。

私たちの活動を理解してくれる一人になった。

今年1月18日、コーラス部今年最初の練習日、若狭さんの姿があった。

彼にとっては、放映後のメンバーの顔が勝負だった。

みんな拍手で出迎えた。

映像の怖さを一番知っているのは彼だった。

プロとしての責任ある姿勢を感じ取った。

ほんとうに心温まる映像をありがとう。

           2004年2月19日 眼科 検査技師 福川和子